1.回答者 玉井 明
2.性別 男
3.年齢 36歳(1986年当時)
4.脳性マヒのタイプ アテトーゼ+痙直
5.現在の障害の状況
自立歩行可・ADL自立可・言語障害有り(聞き取る事可)・手のしびれ有り・肩こり強・首こり大強(痛み伴う)
6.現在の生活形態とその悩み
週5回8時間働いているが、年が立つにつれ、疲れ、倦怠感、手のしびれ、肩こり、首の痛み、頭痛などがあり、自己コントロールがむずかしい。人のつきあい約束などに支障をきたすこともある。朝起きてから、体を動かすまでにかなり時間がかかる耳鳴り等もある。
7.緊張とリラクゼーションについて
仕事などで気を使った時、長い間車を運転した時、長い間しゃべった時、緊張が腹部や胸部に残り、呼吸歩行、言語などに、支障をきたすこともある。発熱した時(1年に3回位)にも緊張が残る。
入浴、趣味、マッサージ、水泳によってリラクゼーションをしている。
年齢 | 生活暦 | 障害の変化 | 社会的状況 |
---|---|---|---|
0歳 | 出産時、予定より2週間位早く生まれる。注射により分娩。母子共黄だんあり。 6ヶ月たっても首がすわらなかった。 | 日大病院に行き診察。脳性マヒと言われ、7歳までに死ぬと言われた。 | |
1歳 | 母親が肝硬変で死亡。 | 1歳になってもハイハイができなかった。発語もおかしい。 | |
2歳 | よだれが出て止まらなかった。 | 慶応病院に行き診察。CPと言われ、「でも訓練すればよくなるから体を動かしたり、 マッサージに行ったりして下さい。」言われる。 | |
3歳 | 祖母がおぶって近所に連れて歩いた。大家族だったので、親類にかわいがられた。寝返りができた。 | 歩けない。発語が出ない。よだれが止まらない。首がすわってない。ハイハイもできない。 | 近所の子らと遊べなかった。むしろ大人と遊んできた。 |
4歳 | 祖母がおぶっていた。風もひきやすかった。相変わらず、マッサージ等に通っていた。。 | 首がやっとすわってきた。なんとなくハイハイすることができるようになった。発語があり、 簡単な指示が初語できるようになった。 | |
5歳 | 親がついて、外へ出た。三輪車などで、遊んでいた。(乗せてもらっていた。) 家の中では、カタカタにつかまってなんとなく2〜3歩歩けるような状態だった。 A.D.Lは全くダメ(やらせてもらえなかった。) | ||
6歳 | 就学時検診に行き、小学校に入学しようと思ったが、就学猶予となる。 | 親が年上の子どもに頼んで、遊ばせてもらった。 | |
7歳 | 家が磯子区に引っ越した。トイレは自分で小便をするようになった。 食事はスプーンで食べていた。テレビが大好きであった。マッサージに通う。 | 50メートルくらい歩けるようになった。床屋に 行って頭を静止することができず、不随運動があり、 自己コントロールできない事で緊張を認識し始めた。 | 長屋だったので親がアメやお菓子などを長屋の子ども達に 与え遊ばせていた。学校から友達が帰ってくるのが楽しみだった。他人と話ができるようになった。 一般と同じ事をしないとカッコ悪いという意識が出てきた。 |
8歳 | 地域の子どもを家に呼んで一緒に食事をしていた。マッサージに通う。 | 地域の子どもとゴロベースや、カンケリをやっていたが、かけることが 出来ないので、、自分なりのルールを作ってやっていた。例えば野球だったらピンチランナーが付くなどして 遊んでいた。長屋の外には出られなかった。 | |
9歳 | 父が三輪車(チェーン付き)を作ってくれた。マッサージに通う。就学猶予も3年目をむかえ親もあせっていた。 | 長屋の中を歩行で移動できるようになった。 | 就学猶予で皆が学校へ行き、社会が広がり、友人も広がり、自分だけが学校も行けず長屋の中に学齢前期の子と 遊んでいて、またその子どもも、時がたてば学校へ行く、その繰り返しだった。学校から皆が帰ってくるのが、楽しみだった。 |
10歳 | 就学猶予が続き、親のこの子は一体どうなるのだろうという悩みから、教育委員会に相談。 もよりの特殊学級なら良いと言われ、4月から入学する。一ヵ月後どうもカリュキュラム的に合わないので、福祉事務所に どうしたらよいかという事で相談。6月ゆうかり養護入園。そこで初めて、普通学校の カリキュラムで勉強する。1年生入学。A.D.L全てやらせられる。全て自分で出来た。はしで食べれた。トイレも大小便自立。入浴介護もなし。 | ゆうかり園入園当日、A.D.Lがおぼつかなかったが、一応こなす。舗装具を作る。マッサージ、電気治療で歩行訓練。腹筋の訓練、 言語訓練、PTなどがあったが、全部さぼる。ゆうかり園内は自立歩行可。遠足などは舗装具をはくのが めんどくさくて、ほとんどはかなかった。 | 入園前の友達から離れるのが苦痛だった。入園してから自分たちより上の入所者が多く、ませた子どもになっていた。 ひたすら訓練から逃げたいがために、トイレにもぐり込む日々が続く。夜は消燈後、近くの畑などに行き スイカ、トマトなど取ってきて食べていた。しかし指導員には受けがいい子だった。ガキ大将ではなかったが、 友達は一杯いた。 |
11歳 | 7月そんなわけで、ゆうかり園を追い出され、路頭に迷ったが、地元の特殊学校を追い出され、普通学級入学。校長の反対にもめげず、普通学級へ編入。 ゆうかり園に入園中に父が再婚。父が結婚して鶴見にいたため、父のオートバイで、週に3回磯子小学校まで、約1時間かけて通学。 週に3回だけだとついていかれず、またカッコ悪く、しかし、図工が嫌いだったので、ちょうど良いかなと思った。 | 自立歩行でどこへでも行かれたが、歩くスピードが遅かった。交通機関は単独で利用した事はなかった。筆記速度が遅いという事に気づく。 初めてテープレコーダーで自分の声を聞き、自分が言語障害があるという事に気づき、がく然とする。感じの書き取りや、朗読などの時、緊張が 出るなという事を自覚した。 | 徐々に学校の友達ができてきた。今までは親が送り迎えをしていたけれど、そういう事がカッコ悪く感じてくる。 |
12歳 | 学区外に戻る。集団登校で、高学年の子に手を引かれながら行く。毎日登校。帰りは一人で帰ってきた。 | 歩行が遅いけれども、学校から家までの、距離約1キロ、独歩でカバンを持って歩く。ハーモニカで小学3年生のカリキュラムの曲は何でもひきこなせた。リコーダーに挑戦。 | 初めて遠足に行く。歩くのがやっとで、無感動で帰ってくる。隣の席の女の子から好きだと言われて有頂天になる。 |
13歳 | 地域の友達より学校の友達の方が多くなることにより、遊ぶ範囲が広がった。 (世界が広がる) | リコーダーが吹けるようになる。時々疲れると、ひざの上の筋肉が痛い。 体の柔軟性がかなり有り、頭が畳についた。筆記が大変、比較的小さな字 (大学ノートに字が書けるようになった。) | 夕方になると悲しくなったり、秋になると悲しくなったり、 春になるよ嬉しくなったりした。天文に興味を示す。 |
14歳 | ひたすら学校になじむ。 | ||
15歳 | 学区外に引越し、約3キロの道を歩いて通う。 | 疲れやすさに気づく。扁桃腺がはれやすい。おなかに緊張が起こり始めた。 レコードがかけられるようになった。 ソフトボール投げで50メートルを記録した。 | 学校の友達とお好み焼き屋さんへ行って遊んだり、本屋さんへ行って遊んだり、 銭湯へ行って2時間位遊んだりした。 |
16歳 17歳 |
市立中学へ入学。また、特殊学級という意見も学校側にあったが、 無視して普通学級に入学。親がバカらしく見えてくる(反抗期の始まり)。 | 重い肩下げのカバンを下げて、4キロの道を歩く。学生服の詰め襟が首に くい込んで、痛かった。英語などの黒板の字をノートに写すのがつらく、全く写さなかった。 | クラブ(天文部)に入り、夜な夜な望遠鏡、写真機等をもって歩き回る。 読書に興味を持つ。 |
18歳 | バスや鉄道に乗って自身をつける。 | 夏はプール冬は天文であけくれる。 | |
19歳 | 高校受験をひかえ、進路について悩む。結局光明養護の先生から、「普通の高校に行きなさいと言われた。」 公立、市立どちらも受けたが、筆記力の関係で私立に行く。 | 磯子から鎌倉まで通学する。朝5:30分に起きて通学する。疲れると、膝の上が痛く(肉離れのような痛み)なる。 筆記速度の関係で、英語と宿題がつらかった。学校で目一杯エネルギーを使うので、家で宿題をやるのは しんどかった。 | 中学生以上に友達の範囲が広がり、下校時は繁華街で友達と遊ぶ。いくらでも食べれた。 |
20歳 | 学生服を着て成人式に行く。なおさら親がバカに見えてきた。 家に帰るのが嫌だった。親と一緒に出かけなくなった。 | 階段の手すりをつかまらずにカバンを持って歩けた。 | 3時間かけて浅間山に登る。 |
21歳 | 社会事業大学、淑徳大学受験。思ったとおり社会事業大学落ちる。 しょうがなく淑徳大学入学。 | 受験の時の筆記速度が遅いため時間内に間に合わないので、 あまり良い点が取れなかった。 | 生徒会の副会長をやっていてインタアクト(奉仕) 活動をしていた。担任の先生と読書会をやる。”赤頭巾ちゃん気をつけて” その影響でなんとなく福祉に興味を持ち福祉学部へ行こうと決意。 |
22歳 23歳 |
学生寮へ入寮。学生寮を出てアパート入居。 | 炊事・洗濯・家事全般をこなす。 | 学校へ行かず。学生運動に没頭する。食糧事情が悪くやせていた。 生活パターンが自由につくれた。(寝たいときに寝て、起きたいときに起きれた。) |
24歳 25歳 |
自動車の運転免許を取る。 | 疲れやすくなってきた。風邪をひきやすくなってきた。 | |
26歳 | 大学を留年する。 | 右足指、中指にマメができる。どんどん広がる。肩の付け根が針で さされたようにピリピリするようになった。 | 2〜3の公務員試験を受けるが、筆記速度の関係で落ちる。 |
27歳 | 卒業はしたものの就職決まらず落ち込む。自分は障害者だと、その時はじめて自覚。 11月より鶴ヶ峰で一人暮らしを始める。
12月作業所創設。 父が心筋梗塞で突然亡くなる。1月より母と同居。 |
肩のつけ根が針にさされたようにピリピリした。風邪をひきやすい。 自動車の運転も始める。 | 8月1日より夜間当直員として勤務。寝不足が続く。 |
28歳 | 7月当直をやめて8月より横浜市内の地域作業所職員件代表として勤務。 | 2月に肝臓を悪くし、疲れやすくなる。車の運転が非常に多くなる。(送迎・納品・レジャー・外商関係) | つきあいで夜遅く帰る事多かった。 |
29歳 | キャッチボールをしていてつかめるはずのボールがつかめなくなった。 | 手の小指がしびれ肩が凝り、首が痛くなった。(疲労時において。) | トイレが近くなった |
30歳 | 作業所の問題でストレス集中。会議をやっていると心臓がドキドキしたり、頭が痛くなっり、 息苦しくなったりした。作業所退職。 | 血圧のコントロールもできなくなった。6月に呼吸困難を起こし会議中倒れた。意識はあったが、その後まっすぐ歩けなくなったり、 頭痛がしたり、脳下内科通院。この時より耳鳴り始まる。朝起きられない。夜眠れない不規則な生活パターン。 | これはという理由はなく交感神経と副交換神経のバランスがみだれ身体神経症の疑いあり。 |
31歳 | こづかいに困った。自由はあったがやる事が見つからなかった。体の調子に波があった。 | ||
32歳 | 礎企画勤務。議員の運転手となる。2ヶ月やって体がしんどく鍋屋に転向。礎企画つぶれてやめる。 | 首が痛くなったり、手が痛くなったり、頭が痛くなったりした。 | 自動車を買おうと思って稼いだ。 |
33歳 | 4月より厚木市内の地域作業所へ勤務。横浜より厚木まで自動車で通う(週3回)夜は遅かった。 | 体調に波があった。頭痛がした。血圧不安定(1ヶ月に2回位)波がはげしく血圧が高い時がある。 | |
34歳 | 生まれて初めて、仕事上で壮絶なストレスを受ける。 | 手がしびれる(ひじから指にかけて)肩がこる。血圧不安定。 頭痛のサイクルの期間が2週間に1回位と狭まる。朝起きた感覚で、 頭痛になるかどうかわかる(頭が重くひっかかる)入浴すると直る事がある。 | |
35歳 | 雨が降ると頭が痛くなった。ワープロのため肩こりがひどくなる。 手のしびれが強くなる。時々腰が痛くなる。頭のこめかみの所が痛くなったり、 痛みが強くなったりする。目がかすんだりどうきがある。倦怠感が増す。 耳鳴りの音が変わってきた。ミーン。ミーン。ミーィンと音が高くなる。 | ||
36歳 | 目の上が痛くなる。首が痛くなり、肩こりひどく、腰の痛み、首が回らなくなる。 カラーをすると楽。首のけん引に通院。 |
その後、1991年にバコロドから帰国後、急激に転びやすくなり、足が思うように動かなくなり、手が上まで上がらなくなってしまいました。
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