アキラのページのタイトル文字 ● 玉 井    明プロフィ-ル 改定版 (2024.3.17)
1950年 横浜生まれ。水瓶座。1歳になっても首が据わらず。
1951年 一歳の時に実の母が肝硬変で亡くなった.
同年、日大病院で診察を受け脳性まひと診断され、3歳までに死ぬと言われる。
1956年 就学時がきたが学校に入学できずその後4年間就学猶予とされてしまう。
1960年 横浜市立磯子小学校へ特殊だからと言われ特殊学級へ入学。
6月ゆうかり園、ゆうかり養護学校の1年生として編入する。

同年突然、父が再婚していてびっくり。

1961年 7月  県立ゆうかり園。退院。
9月  横浜市立磯子小学校普通学級2年に強制的に編入する。
1966年 横浜市立岡村中学校入学。
( 岡村中学校は、あのストリートミュージシャンで一躍有名になった"ゆず"や、都会的なサウンドで 一世風靡した杉山清貴&オメガトライブの"杉山清貴"の母校でもある。 また古くは美空ひばりの弟の"小野徹"も通っていた。小野先輩は恐いと岡中の伝説になっていた。)

吹奏楽部、天文部、JRC(日本赤十字)活動に夢中となる。
当時ベンチャーズをこよなく愛していた。

1969年 STミカエルハイスクールに入学。
(先輩には、ザ・スパイダースの"堺正章"や、俳優の真木蔵人のお母さんである、女優、"前田美波里" がいた。)

よくチャペルの十字架の裏でたばこを吸っていた。
映画「小さな恋のメロディ」のトレーシー・ハイドのとりこになり、6度映画館に通う。
また、庄司  薫氏の「赤頭巾ちゃん気をつけて」に影響を受け、 皆さん関連性が理解できないでしょうが、福祉の道に進もうと思った。

1972年 22歳の時、淑徳大学・社会福祉学部に入学。革マル派に間違えられひどい目に合う。
(後輩には大竹しのぶの"妹"もいた。現在では北野たけしの兄の"北野大教授"もいる。)

在学中社会福祉主事と児童福祉主事の任用資格をどういう訳か取る。

1977年 淑徳大学を卒業したが、就職が決まらず初めて自分が障害者だなと思った。
同年6月家出をし、横浜市旭区鶴ヶ峰の地において、作業所を設立。現在は法人である
”空飛ぶくじら社”を自宅でスタート。

父が心筋梗塞で突然亡くなる。1月より義母と同居。

1980年 4月  健常者と障害者の板ばさみになり、「どうでもいい!俺は福祉屋は嫌いだ。」
        と言い残し鍋や包丁の訪問販売を始める。
1981年 たまたま県社協に鍋を売りに行った時、CIL(アメリカの自立生活センター)の人たちが
黒船に乗ってくるという事を聞き、受け入れ側の実行委員になる。
1983年 あすなろの会障害者自立活動センター事務局長として勤務する。
1984年 あすなろの会障害者自立活動センター作業部の所長となる
1986年 9月 最後の力を振り絞りやっと結婚
1987年 2月 長男雄誕生。(計算が・・・)
4月 あすなろの会障害者自立活動センターの代表となる。
1988年 4月 長女美衣誕生。
1990年 1月 二男。創誕生。
1991年 神奈川県全身性障害者団体連絡会代表として活動。
10月 フィリピン。ネグロス島バコロドに車いす寄贈のため出かける。
        初めてマラカニアン宮殿の裏のスモーキーマウンテンに立つ。
1992年 2月 横浜南共済病院にて頚椎症(脳性まひの二次障害)のため急に手が上がらなくなり
       歩行も困難になり手術。
6月 退院。
1993年 1月 職場復帰。 4月 神奈川県障害者自立問題研究会委員となる。
1996年 神奈川県障害者自立問題研究会委員報告書を県に答申する。
この事が現在厚木市で行われている自薦登録ヘルパー制度につながってくる。
1998年 神奈川県障害者自立生活支援センター運営委員長に就任。
2000年  2月 急に歩行困難となり、腰椎5番および仙骨の1番を削り神経根の圧迫を取る手術を
       横浜南共済病院で受ける。
 4月 三男 潤誕生。みんなに腰が痛いのによく作れたなと嫌味を言われる。
       自称障害者の上原 謙といい開き直る。
 8月 身体障害者ケア・マネジャー取得。
10月 厚木市障害者生活支援センター運営委員長に就任。
2001年 7月2日 NPO(非営利活動法人)を取得し名称も あつぎ障害者自立生活センターと変更し、
常務理事・所長として活動していた。
2003年秋 焼肉のたれ無しで冬眠する。
2005年秋 入退院を繰り返しながら、トロピカルなかすみや、アルプスの森林のかすみなどを食べて生きていたが、 地球温暖化により、好きなかすみがなくなり、生活保護を申請し、受理される。
本音を言えば、みのもんたの『クイズミリオネラ』などで、一旗あげたいという邪念を密かに持っている。
9月27日横浜南共済病院し、11月4日午前より頚椎手術を行う。3週間寝たきりで過ごす。 何回体験してもベッド上の寝たきりで緊張と闘うのはいやなものだとしみじみ思う。
2006年冬 正月を病院で過ごし、その後2月3日退院。
2006年9月 脳性マヒ者の二次障害無料ビデオチャットルーム相談コーナーを本ホームページにて開設。
2006年11月 障害者医療問題全国ネットワーク(二次障害情報ネット)第6回シンポジウムに近藤ドクターとともにパネラーとして参加する。
2007年5月 めでたくかどうかわからないが生活保護を解除になる。
20010年3月 50年付き合った義母が89歳で亡くなる。
20010年5月・9月 5月自宅の脱衣場で転倒し左足指4本を骨折。同9月。治ったとたん右足指3本骨折。折った骨は計7本。ラッキー7だと言って苦笑い。 そのストレスから胃潰瘍で胃カメラを飲む。
2011年6月 ちょぼちょぼと自分が出来る範囲で障害当事者団体に関わる。
2024年3月 この13年間のおもだった出来事。
手が上がらなくなり、歩けなくなり、体幹機能も低下してしまい横浜南共済病院に入院。その後 頚椎の1番2番の神経を圧迫している骨を削るオペをした。術後、手がまた上がらなくなり、 指も動かなくなったため、人生2回目の ハローベストをした。 リハ科の作業療法士さんから頚椎の1番から7番番まで全部オペをクリアした人はいないと言われた。 またハローベストも別の骨の位置で2回目をした人も珍しいというお話もお聞きした。

その後厚木市七沢にある神奈川県総合リハビリテーションセンターに、体幹機能を回復させるためのPT、OT の訓練のために入院。その間横浜南共済病院から継続した重度訪問介護のヘルパーさんに病院内での介護に10時から19時まで入って頂いた。 その後リハビリの最大課題であったトイレと入浴の福祉機器の評価をして頂き、無事退院の運びとなり、在宅生活に 戻ることができた。

家に戻りパソコンのマウスやキーボードの操作もできるようになり、『たまたまカバー』の活動を再開した。

一難去ってまた一難。コロナ禍に横隔膜の機能が低下し厚木市立病院に入院し、退院後も在宅酸素療法となった。 植木等ではないけど♪いろいろあるよ。いろいろね。♪(『いろいろ節』より)

そして現在に至る。在宅で重度訪問介護の制度を使って生活し、ライフワークとして『たまたま玉井のたまたま カバー』の活動をしWEBで皆さんに聴いて頂くことを自己満足として生きている。

続く・・・

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