自分らしく生きるために 自らの経験を通して伝える障害者の自立

自分らしく生きるために

自らの経験を通して伝える障害者の自立

かながわボランティアセンター発行
『セルフヘルプ・グループからのメッセージ 第5回かながわ市民カレッジの記録』
2002年3月掲載      玉井  明

小学生   地域で遊び育って

  僕は1950(昭和25)年、横浜市西区境ノ谷で生まれました。 もともと実家は富士見町にあったのですが、 そこはGHQの接収地である伊勢崎町の裏だったためにいられなくなり、 とりあえずの仮宿として、磯子の八幡橋の側に住んでいました。 そこは長屋で子どもがたくさんいましたが、おじさんおばさん達が、 私も子ども達と遊べるようにと、よく飴やジュースで子ども達を釣って(笑) 僕と遊ばせてくれたようです。僕は1歳の時に脳性マヒと診断されていましたが、 そこでは野球や陣取りゲームなんかで遊びました。僕が一番できなかったのは、馬跳びでした。

  そうやって、毎日地域の中で他の子ども達と遊びながら過ごしましたが就学時が来た時に、 僕は学校に入学することができずに、そのまま「就学猶予」という形で4年間学校に行かれませんでした。 その後、僕は「特殊だから」ということで磯子小学校の特殊学級へ入学しました。当時1960(昭和35)年は、 特殊学級の充実が法的に定められた頃です。  

  しかし、特殊学級のプログラムは知的障害者を中心としているため、 肢体障害者である僕には合わなかったのです。運動やリズム体操、作業療法についていかれない僕を見て 特殊学級の友人は「玉井君、授業についてこれなくてかわいそうだね。でも頑張るんだよ。」と同情してくれました。「こりゃ合わねぇな。」と思い、 仕方なく当時県内で唯一の肢体不自由児の養護学校「ゆうかり園」に1年2ヶ月入所しました。

教科書   ゆうかり園に入所

  何故そこまでして親元から離れてまでも、ゆうかり園に入ろうと思ったのか。 それは、いつも一緒に遊んできた友達は成長し学校に通うにつれ、自分たちの社会を どんどん広げていっている一方で、僕だけ社会に取り残されていくという焦りがあったからです。 もちろんその焦りは、親にはもっとあったのだと思います。

  1960年当時ゆうかり園は『ポリオ(脊髄性小児マヒ)』の流行期であり、また『股関節脱臼』の子 も多く入園していました。 『ポリオ』はポリオ菌に感染し、高熱が続いた後、手、足、肩、 腰や横隔膜等、脊髄の神経がダメージ受けるのが原因でおこります。 『股関節脱臼』はその頃女の子に多く見られました。当時は一歳児検診は基より三歳児検診も無かった ように思います。そのためかそのまま成長と共に身長、体重、運動能力も増えたところ で股関節に痛みが出て、その時はじめて『股関節脱臼』になってしまったことが判るのです。 股関節脱臼のその頃の治療法は膝にボルトを入れ、そのボルトを比較的細いワイヤーロープ を付けスポーツジムで使っているような重りで引っ張るような牽引治療(ボルトを入れる 手術も含めて)を受けていました。ポリオの人は筋肉が付かないため当然ながら関節として機能しません。 そこで、足関節を固定する手術をして、補装具をつけ、松葉杖で歩く かたちになります。

  ポリオは、日本の高度経済成長期直前の1950年代末から1960年代はじめ にかけて流行しましたが、これは国の対策に問題がありました。米ソ冷戦化の中、アメリカ 製の加熱ワクチンとソ連製の生ワクチンがあり、日本では政治的、イデオロギー的理由から ソ連が開発した効果が高い生ワクチンの使用の認可がおりず、加熱ワクチンに依存した結果 ポリオ感染者が増えてしまったという背景があったのです。ちなみに、現在では予防接種に よって、日本ではポリオはいなくなりました。しかし、当時ポリオ菌に感染した人は、現在 「ポスト・ポリオ」という問題を抱えています。それは日常的に無理して体を使ってきたことで悪かったところ の神経が、加齢化も伴い痛みや身体機能の低下につながるという二次障害の症状です。

注) 我が国では約50年程、ポリオワクチンは非加熱製を使用していました。 その後、副作用や後遺症が出るということと、医療技術の進歩で有効で安全な加熱製ワクチンが開発されました。 全国に先駆け神奈川県は2012年より加熱製ポリオワクチン接種を実施に踏み切りました。

  しかし、ゆうかり園では、私たちのような脳性マヒ児の多くは整形外科的治療、特に手術には全く無縁の時代 でした。ただゆうかり園には言語療法士、作業療法士、理学療法士などが訓練指導をしていました。私はリハビリ やADL(Activity of Daily Living:日常生活動作)についての訓練が中心のプログラムでした。 私はゆうかり園で初めて箸を持ったり、安定した歩行が出来るようになりました。まあ、私にはもともとその 機能は持っていたと思いますが、家族が多少過保護だったので、家ではその機能が引き出せなかったのだと思います。リハビリ をサボッて逃げ回るのも訓練。夜、年上の(中学生も高校生もいたから)人たちのHな話を聞くのも訓練でした。 トランジスターラジオから流れてくる森山加代子さんの「月影のナポリ」を思い出してしまいます。

挙手をする子ども   「かっこつけの目立ちたがりや」小・中・高校・大学時代

 ゆうかり園を出た後、再び磯子小学校の特殊学級に行く話しがありましたが、それでは以前と 同じになってしまうという事で、普通学級の2年生に強制的に編入しました。編入に関しては、学校側から 「地震の時はどうするのか。」「火事の時はどうするのか。」 「雨が降ったらどうするのか。」「いじめられたらどうするのか。」などなど、 そんな事ばかり言われました。ここでは、後妻で来たお母さんが頑張ってくれたので (実母は1歳の時に亡くなっています。)、編入が可能になりました。

  実際に通い始めると、確かにいじめはありました。いじめる側は特定の生徒で、 後は見ているだけといった人や、直接的ではないけれど二次的な関わりを持ってくる人もいました。 例えば言語障害の真似をしたり、歩き方や格好を、酔っ払ってふらふらした感じで真似するといった事です。

  「どうやったらこいつらとうまくやっていけるのか?」子どもながらにこの状況を考え、そして「こいつらは、 俺が怒る様子を見るのを楽しんでんだ。じゃあ、怒んなきゃいいんだよな。」という結論に達し、一番良い解決方法として、 真似した生徒にこちらから寄っていって、 その頃僕が大好きだったクレージーキャツの『大人の漫画』や『シャボン玉ホリディー』のコントみたいな雰囲気で 「ねぇ、ちょっと、そこ違うよ。そこはもっと喉の筋肉を力を入れて、ほらこういう発音だよ」と、指導する様なふりをしました。 すると、相手の方としては言っても張り合いがなく面白くないので、そのうちにおさまりました。そうなると面白いもので、 だんだん自分の班の人が、何か合った時にかばってくれ出し、次に列でかばってくれ始め、 最後には別のクラスから何か言われた時にも クラス全体でかばって文句を言ってくれるような状態になったのです。 親分肌の生徒たちもいて、良い意味での仲間意識があったようです。

  特に何が一番自信がついたかというと、隣の席の女の子に授業中突然「好き。」と言われたことです。 その時は、6時間くらい勉強も手につかず、嬉しくてぼーっとしていました。また、どういうわけか、かっこつけの目立ちたがりやでしたので、 運動会の時は運動しなくても目立つ放送部に入りました。今思うとこの言語障害で放送部に入ったのですから、相当図々しかったのではないかと思います。 ただ、遠足や郊外学習は景色どころではなく、皆のペースに付いていくのに精一杯でした。そんな感じで小学校時代をすごしました。

  そして中学校に入学する段階になって、またしても例の「養護学校」や「特殊学級」の話が出てきました。 そこでも「小学校でもやってきたのだから、中学校でも出来ない事はない。とにかくやらせて下さい。」と押し切りました。

  中学校では音楽や天文が好きだったので、ブラスバンド部や天文部に入部して、それなりに楽しい中学生活でした。 小学校3年生の時に「ヘイポーラ」や「ボーイハント」などの曲を聞いて以来の音楽好きで、ベンチャーズや加山雄三が大好きでした。 天文部は夜に活動するクラブでしたので、夜な夜な校長室に入って、顧問の先生が作ってくれたラーメンを食べたり、 流星が沢山見られるからと言っては女の子を誘い、その女の子横顔ばかり見て、 自分は流星を何回か見逃しりもしました。天文部は妙な個性の生徒の集まりでした。学校の昼休みよく「オクラホマミキサー」の曲が流れていました。

  相変わらずの目立ちたがりやで、中学校、高校と過ごしました。そして、高校卒業後の進路では、、大学に行くか就職するかで悩みましたが、 就職もなかなか無かったので、時間かせぎという意味もありましたが、淑徳大学に入学する事になりました。 高校時代は自宅から通学するのにまだJR根岸線が全面開通してなかった頃で大変苦労しました。

  大学時代は学生運動が盛んな頃で、行ったとたんに「お前は障害者のくせに、何でこんな所へ来るんだ。 障害者の管理者になりたいのか。」と言われました。それを聞き、落ち込んで、3ヶ月位下宿に引きこもって考えましたが、最後は開き直って、 前衛ではなく、後衛での関わり方にしていこうと思いました。普段の生活と言えば、大学が千葉市内のはずれにあったので 月4,500円のアパートに住み、パンツを洗った一つしかない同じ洗面器でインスタントラーメンも作り、 その洗面器をどんぶり代わりにみんなで箸を突っ突いて食べたものです。醤油が消えた思ったら一階の友達の部屋にあったり、 下宿に戻ると突然友達が寝てたり、何だか、ムーミン谷みたいな生活をしていました。もちろん、流れてきたのはかぐや姫の「神田川」でした。

飛行船   やっぱり福祉畑のそばで・・・「空とぶくじら社」を経て障害者運動へ関わる

  いざ、大学を卒業して就職したときに、「やっぱり俺は障害者なんだ。」ということを実感しました。千葉県の八千代市役所や、 長野県の飯田市役所・駒ヶ根市役所、もちろん地元神奈川県の横浜市役所など色々受けましたが、どこも難しかったです。 友達と会うとみんな酒を飲んでは上司や先輩の悪口を言い合っていましたが、 それはそれで言えるだけいいなと思いました。皆は自分で稼いだお金でお酒を飲み、自分はそうではない、ということにへこんでいました。 「障害者」の問題は、学齢期と、この就職期の問題が大きいのだと思います。 結局、ゆうかり園園長の浜田精志先生の口利きで、ゆうかり園の当直をすることになりました。やはり、福祉畑のそばにいたかった事もあり、 そこに6ヶ月くらいいました。

  そうこうしているうちに、結局「仕事が無いなら自分で創るしかない。」ということで、家を出て仲間数人と旭区の鶴ヶ峰に 二軒続きの貸家の一室を借りて、作業所「空とぶくじら社」をつくりました。この名前には、「くじらを空に飛ばす」という途方もない エネルギーがある位なら障害者が街で生きる事の方が簡単だという思いが込められているような気がしました。 (はっぴぃえんどの「空飛ぶくじら」も好きでしたけどね。)県内で4番目に認可された作業所でした。 つまり、おニャン子クラブ 会員番号4番の新田恵利と同じ順位でした。 当時、昼は作業所でプラスチック製品の加工等の作業、夜はゆうかり園の夜間当直という生活でした。 ボランティアや地域の主婦、学生、養護学校教師、施設の指導員等の参加もあり、地域の中で仲間の輪が広がっていきました。

  しかし数年そこで活動している中で「福祉屋」が嫌になってしまいました。障害者の生活が全て善意で片付けられているような気がしました。 若かったせいでしょうか、私は共同体型の思考だったので、管理する側、される側という基本的な問題に悩んでいました。 そんな違和感を感じながらも仕事をやっていましたが、ある日突然呼吸困難を起こして倒れてしまいました。 何かと思ったら自立神経失調症になっていて、結局「空とぶくじら社」からは3年間で降りました。
  バブル経済の前夜とも言われている80年3月、退職届けを渡し、福祉業界に別れを告げました。
  八王子の千人町にある友達のアパートに一ヶ月程転がり込みました。 街には松田聖子のリゾートソングが聞こえていました。

  精神的に充電も出来、そして次に何をやったかというと、鍋の商人をやりました(笑)。 今考えると嘘か本当かわかりませんがNASAで開発したという五層構造(ステンレス・鉄・チタン・鉄・ステンレス)の 25万円もする六点セットの高い鍋を訪問販売していました。時には包丁も売りましたが、 急に脳性マヒ者が包丁を持ち出すと、びっくりされてしまうので、 鍋を先に見てもらった後で包丁も販売していました。 その鍋と包丁を使い、油を使わずに出来る料理講習会(ホームパーティーと呼んでいましたが)を地域の主婦を対象に開催し、 気に入ってもらえれば購入契約をする商人でした。 それなりに給料が良かったです。1年間くらい働いていましたが、やはり、僕が障害者である以上福祉から逃げられないようでした。 たまたま県社協に鍋を売りに行った時、国際障害者年を記念して、アメリカの障害者自立生活センターの人たちを呼ぶという企画があることを知りました。 後に当時『脳性マヒ者が地域で生きる会』の代表者であった白石清春さんから突然自宅に電話があり、 「玉井君。アメリカのCIL(Center for Independent Living)の障害者が10名位来るから神奈川の実行委員をやってくれない?。」と声をかけて頂き、 受け入れ側の実行委員会の当事者の仲間に入れて頂きました。 黒船に乗って来たアメリカの障害者のメンバーの中になぜか、ジョン万次郎のような沖縄出身の高嶺豊さん(当時はYutaka・Takamine)という方がいました。 高嶺さんたちから「日本にも障害者の自立生活センターが必要だ。」という提案がありました。

  1981年日米障害者自立神奈川セミナーは衝撃と興奮のうちに終了しました。 その神奈川セミナーの反省会で県社協に行った時、図書室で見知らぬ人に「玉井さん。」と声をかけられました。 その人は当時「神奈川県総合リハビリテーションセンター」の職員であった大塚庸次さんでした。 大塚さんの話を聞いてみるとボストンとバークレーに福祉研修に行きながら、日本から来た障害者のアテンダントもしていたとの事でした。 「玉井さん。厚木のあすなろの会で障害者自立活動センターを作りたいんだよね。ほのぼの園という保育園で忘年会があるので遊びに来てよ。 そこに会員が集まっているからね。」と誘われました。私もあすなろの会に、友人の送迎ボランティアで関わった事があり、 会があるという事は知っていました。結局私はその忘年会の鍋料理につられて「あすなろの会障害者自立活動センター」を作るという 活動に加わることになったのです。

  今でこそ県内に400近く(2002年当時)ある作業所ですが、当時1980年代は地域作業所が 神奈川に出来始めた頃でした。そこで、障害者のための障害者を中心にした、自立生活運動をやっていく拠点をつくる事になり、 「あすなろの会障害者自立生活センター」を設立しました。 作業所と自立生活センターの併設目的は、やはり、障害者の生活全般を支えていかなくてはいけないという思いからです。 作業所のデイ・サービスは日中では問題はありませんが、土日や夜間帯には全く不向きなのです。作業所は夜は閉まりますし、 また、親が死んでしまった後、作業所に通えるかというと、通えないというむなしい側面があり、 そういった緊急時の対応のニーズに応えるのが困難な状況でした。やはり生活全体となると、自立生活センターでの支援ないし グループホームやケア付住宅を作ることが必要になると思います。 特に、自分でセルフマネージメントしていきたいという人に対しては、自立生活センターの存在が必要になってくると考えられます。 それが80年代の地域福祉の潮流でした。

もぐら   結婚と子育て

  「あすなろの会障害者自立活動センター」で働いた当時、まだ私は横浜の保土ヶ谷区の県営団地に住んでいました。 そこから本厚木まで車で通っていました。父親が1977年(昭和53年)に 心筋梗塞のため急死してしまったので、 なりゆき上、母と一緒に住もうかという話になりました。 やはり、一人暮らしをする、自立するというのは期間限定で、そのチャンスを逃すと次のチャンスが無くなるという ことがよくわかりました。ある時に思いきってパッと家を出てしまったほうが、しかも親が若いうちのほうが自立はしやすい のだと実感しました。そう言う意味では自分はラッキーだったと思っています。その後、通勤が大変になって来たので、 厚木市内の吾妻団地に母と引越しました。 あの頃の事を、改めてこの文書を読み返してみると、松任谷由実の『気ままな朝帰り』の曲がふと、私の頭の中をぐる ぐる駆け廻り、懐かしさでいっぱいになります。

  ちょうど私が勤めて1年位たった頃、「あすなろの会」で働いていた時に、若い女性が入ってきました。 この子がとてもぶきっちょで、餃子を作ってくれるので喜んでいたら、出来上がったのがワンタンスープだったりしま した。世の中よく分からないもので、その女性が今のかみさんです。 私の結婚の時も、父の葬式の時にも感じたのが、障害者と冠婚葬祭というものが密接な関係があるということです。 なんと言うのか、『冠婚葬祭を仕切れれば、立派な大人。仕切れないと半端な人間』という日本的な風潮です。 親戚筋とも色々ゴタゴタとし、この時も、しみじみと自分は障害者なんだなと思いました。障害者にとって、この冠婚葬祭という 儀式をいかに切り抜けるか、というのも一つの課題だと思います。私が結婚するときも親、親戚はもとよりお互いの知 人にも反対にあいました。私の日ごろの素行が悪いせいもあるとは思いますが・・・。 ちょっと時代遅れの言い方ですが差別、抑圧、分断が存在するのだと実感させられました。 その時の気分は何となくジュディ・コリンズの「青春の光と影」の曲でしょうか。

  その後、5ヶ月たって長男が生まれました。保育園に行くと私もお父さんです。子どもたちは正直ですから、近寄って きて、私のことを「怪獣さんだ」と、とても珍しい目で見られていました。 子どもたちの中にも、やはり「ウルトラマンがかっこよくて、怪獣がかっこ悪い」ということが 潜在的に焼きこまれていたことを感じます。 本当は、小さい時から一緒に育って知っていかなければいけないことだと思います。うちの子にも色々教えていますが、 なかなか子どもに伝えるのは難しいものです。覚えてくれたのはコーラの味くらい。僕はコーラ中毒なんです。(笑) その後、長女、二男を設けました。結婚して子どもができて分かった事は、家事も労働なんだという事です。 父親が果たす家事労働、母親が果たす家事労働があるけれど、僕は二つともできないのです。町内会の掃除でも 「旦那さんは障害者だから掃除しなくていいわ。」なんて言われます。僕は「ラッキー」と思いますが(笑)、 かみさんの方としては納得がいかず、「疎外されている」と思うところもあるようです。 確かに、疎外されているのも事実ですが、僕自身は開き直って、「やらなきゃやらないでも、いいんじゃないか。」と 思ってしまいます。

迷えるおじさん   支援費制度への移行と「障害者自立生活センター」の関わり

  2003年4月1日から「支援費制度」が実施される予定です。これは社会福祉の基礎構造改革の中でも介護保険制度に並ぶ大きな制度改革と言えます。 障害者福祉サービスを対象に、行政がサービスの受けてを特定しサービス内容を決定する従来の「措置制度」から利用者の自己決定を基本とした制度に 変わるとなっています。

  今までの措置制度では、例えば「A」「B」「C」という施設があっても利用者は選べず、福祉事務所が「あなたはAの施設へ入って下さい。」と 指示し、法的根拠の元になされる行政処分として施設に入りました。
  それが契約制度に変わると、契約するのは、事業者と利用者本人となります。自分で自分の利用したい事業所を選べるのは、とても良い事です。 しかし、実態は、事業所が多ければ選択も可能ですが、少ない場合は、事業所が自分たちに都合の良い利用者を選ぶという逆転現象が起きてしまうのです。 都合の良い、とは、きちんとお金を払ってくれて効率よく稼げる相手です。そうなると、重度障害者を敬遠されることにもなりかねません。

  しかも、お金については当然利用者本人が払いますが、そのお金は行政を通して業者に行きます。管理は自分でなく行政がしていくのです。 ですから、気が付かないと、お金の動きさえ分からなくなってしまう危険もあります。

  また、支援費制度になった場合に、特に問題と考えているのが「自薦ヘルパー」です。あつぎ障害者自立生活センターでは、 行政から「自薦ヘルパー制度」の委託を受けて、1日5時間、自薦ヘルパーを派遣しています。行政から自薦ヘルパーの賃金を受け取り、 時給として1,200円を支払い、1日分の事務手数料として200円を自立生活センターが戴きます。 しかし、支援費制度になった場合、今までセンターが請け負っていたこの業務を、 200円で一体誰がしてくれるのでしょうか。

  ここで「自薦ヘルパー制度」を少しご説明します。この制度は、障害者が自分で選んだ人を自分でヘルパー登録するという契約制度で、 CIL(障害者自立生活センター)の活動の流れをくむものです。僕は本当は3歳で死ぬと言われていたけれど、どうにか52年間生きてきました。 その中で、アメリカのCILの方々に出会い「障害者が一番の専門家だよ。」と聞かされ、カルチャーショックを受けました。 そして、そういった障害者の生活の問題を障害者側からも提案する機会の場として、県の検査委員会や自立問題検討委員会が作られました。 しかし、その後県が提案してきた条項は諸委員会で討議を重ねてきたものとは大きく隔たりがありました。 そこで「神奈川県全身性障害者運動団体連絡会」と県との交渉の結果、何とかヘルパーの付帯事項の中に「自薦ヘルパー」が 公的なサービスとして認められるようになりました。 こうしてせっかく作られた便利な制度ですが、その後10年間各市町村から名乗りを挙がらなかったため、実施する事ができませんでした。

  現在、神奈川県内では伊勢原、厚木、横須賀で施行されています。この制度を使える障害者は、、言語障害や重度障害者(脳性マヒの1級や、 頸椎損傷で親御さんが介護できない場合や一人暮らしの場合です。)等コミュニケーションが難しかったりで、特に慣れた人でないと介護が難しく普通の ヘルパーでは対応できないような場合に、自分の状態をよく分かっている人を自らの選択でヘルパー登録するのです。そのような限定があるので、 厚木でこの制度を使っているのは7人しかいません。ちなみに脳卒中で重度の障害がある人には適用されません。また、厚木市で保障されているのは、 自薦ヘルパーが1日5時間、普通のヘルパーが2時間の合わせて7時間です。

  この自薦ヘルパーがなぜ必要かと言うと、例えばヘルパーが必要になったある障害者が、福祉事務所にヘルパーを要請しに行ったとします。 福祉事務所はその障害者のためにヘルパーを探しますが、そのヘルパーは、こちらとしてはどんな人か全く予測できません。年齢も性別も、性格も、 自分が必要とする介助技術を持っているかもわかりませんし、希望どおりの人が見つかる可能性はむしろ低いです。 まして、土曜日の午後や日曜日、夜間や深夜などの時間帯にはなかなか見つかりません。 そこで、そういった問題を解決してほしいというニーズがあり、自薦ヘルパーの制度が取り入れられました。

  自薦ヘルパーを見つけ、活用していくためには自立生活センターが間に入り人員募集をして当事者とともに面接をし自分に合った人を選んでもらう方法や、 または、自分が持っている人脈から自分に適した人を見つけてていく方法があります。 その人を市に「自薦ヘルパー」として届け、認められたら実際にその人が活動した分のお金が、後で市から振り込まれる事になるのです。

  ヘルパー制度には、「介護保険のヘルパー制度」、身体障害者の主に1、2級を対象にした「ガイドヘルパー制度」(外出等移動専門のヘルパーです。)、 そしてこの「自薦ヘルパー制度」があります。支援費制度に移行した場合、この障害者のヘルパー制度が介護保険の制度になる可能性があります。 介護保険は「要介護認定」が5段階に分かれていますが、障害者ヘルパー制度の方は、「重度・中度・軽度」の3段階という話がありますが、 まだよく分かっていません。

  当センターでは、、昨年4月から行政の委託を受けて「自薦ヘルパー事業」を行ってきましたが、、実際受けてみると、あまりにも事務が多く、 重ねて行政からの注文も多いのですが、それはそれでいいと思っていました。しかし、支援費制度に移行した場合、事業所にならないと登録ができなかったり、 2.5人以上のヘルパーを常駐させなければいけないという条件がついてきたり、私たちはNPO法人として事業を委託されていますが、2人障害者が いるという事で非課税扱いされていたのが、支援費に移行した場合は、わずか200円ですがこれも課税対象になってしまうという問題も生じます。

  自薦ヘルパーが厚木市では特例で扱われるのか、扱われないのかもまだ見えてきません。これは、6月に厚生省が方針を打ち出すそうですが、 その前に手を打って4月に事業所として認可を取る準備もしておかないと、まずい状態になっています。
  このころ、テレビをつけるとよく「プロジェクト]」のテーマソング、中島みゆきの「地上の星」の唄が流れていました。

テキストを見ている男女   自立生活センターでの取り組み
                  障害者の自己選択・自己決定を支える


  僕たちは作業所をやってきて、その限界を知りました。やはり作業所はあくまでも作業所で、生活の中の一部でしかありません。 24時間安心して住めるのが生活だと思っています。そこで神奈川県障害者自立生活センターに1年半程関わってみましたが、基本的に広域で大きな組織のため、 自薦ヘルパーまではいきませんでした。それで、僕はあえて厚木を選び、地域密着型でやっていこうと思ったのです。

  自分自身、だんだん年を取り、1978年頃から二次障害が出始めました。剣山でつつかれたような、末梢神経が刺されるような痛みとも痒みとも つかない感覚が出始め、そのうちに、今度はひどい肩こりがしはじめました。ある日、キャッチボールをやっていたら、球がグローブに入った時に、 確かに捕れていたはずのボールがポロっと落っこちてしまいました。それで病院に行ったところ、頸椎症になっていたことがわかりました。 症状はどんどん悪化し、ついには手が上がらなくなり、歩けなくなってしまいました。1992年に頸椎症の手術を受け再び歩けるようになりました。 しかし、しばらくして今度は腰痛がひどくなったりと、二次障害が別の部位に出てきました。全身性障害者特に脳性マヒの方は、 やはり年をとればとるほど、どこかしらが悪くなってきます。 「このまま機能が低下して生活できなくなったら、どうやってサポートし、サービスを供給していくのか?」と、自分にとっても切実な問題になっているのです。

  そこで自立生活センターでは有料のヘルパーとともに、時間やお金に関わりの無い立場のボランティアも育てていかなくてはいけないと考えています。 もちろん、僕も含めて障害者側も育っていかなくては困ることもあります。健常者は僕たちの気持ちがわかりませんが、 これは、障害者が健常者の気持ちをわからないのと同じです。ですから「わからない」というところから、 各地で自立生活の学習会をしながら、お互いわかっていこうではないかということで取り組んでいます。

  実際始めてみてわかったことは、「僕たちが意図していた障害者がいない」ということです。脳性マヒや頸椎障害などの方で、 この活動に関わろうというスタッフがあまりいません。利用者の中から掘り起こし、利用者=スタッフのようなかたちで、 仲間としてやっていくしかないと感じています。
  私たちは、障害者に対して何から何までサポートするのではなく、あくまで自己選択、自己決定できるためのお手伝いをしています。 自己選択・自己決定とは、何が自分に必要で、必要でないのかをはっきり意思を持って伝えられるという事です。
  具体的には、パソコン教室や町のバリヤフリー点検、ヘルパー研修をしています。 逆に障害者の方にヘルパーさんについての研修もしないといけないと言っています。

  その他の活動としてピアカウンセリング(Peer Counseling)事業を行っています。 「ピア」とは、英語で「仲間」を意味し、「ピアカウンセリング」は、同じ障害や、似た背景を持つ同士が、 対等な立場で相談し、問題の解決に向けてサポートすることを言います。このピアカンはとても難しい仕事です。 ピアカウンセラーは、一般的には「全国自立生活センター協議会(JIL)」による集中講座や長期講座、人材養成講座等を受けて認定されています。 資格が確立されているわけではありませんが、やはり心理的にもかなり踏み込むことあるので、このような講座を受けて聞く態度等きちんとしていないと出来ません。 また、「障害者」と言ってもその障害の幅は広く、例えば、同じ脳性マヒの人に対するピアカンはできるかもしれませんが、 果たして視覚障害者のピアカンができるかと言うと、難しいと思います。ですから、やはり、頸椎損傷であれば頸椎損傷者、視覚障害者であれば視覚障害者、 聴覚障害であれば聴覚障害者、知的障害ならば知的障害者本人や家族などが適当だと思います。 そうなると、そのような幅ひろい人材を探さなくてはいけなくなりますが、難しいのが現状です。

  相談内容としては、「出会い系サイトにはまってしまい、大変な状態になってしまった」「友達がほしい」 「どこかへ行きたいけど、行く場所がわからない」「趣味がわからない」など、行政に言っても相手にしてもらえず、 家の人にも相談しづらいなどの相談もきます。行政は、制度的な内容、例えば、「身障手帳5級だったのを4級にしてほしい」 「このような制度を使うには、何級にしたらよいのか」といった内容には対応できますが、 私たちにはそれ以外の生活の場面での様々な相談が寄せられるのです。「住宅を探してほしい」という、 福祉事務所が口を出せないような内容の相談も受けています。
  その他、ヘルパーさんに対して利用者からの苦情もあれば、逆にヘルパーさんからの利用者への苦情ありますし、 非常に疲れる嫌な仕事ではありますが、このようなコーディネイトも仕事です。私たちは決して行政の下請けではありませんが、 結果的に下請け的な役割も果たしているのかもしれません。ただ、それも実績のうちですので、私はそんなにこだわっていません。

家を持ち上げて一生懸命支えている人   「実行部隊」の必要性
                  障害者の生活を支えるために必要な事は

  このように、私たちはヘルパーの派遣等にも力を入れていますが、この言わば「実行部隊」が障害者の生活にとって大切だと考えています。
  私たちは、先ほど紹介しました自立生活センター独自の活動の他に、「市町村障害者生活支援事業」を市から委託されています。 この「市町村支援事業」は、厚生省の「障害者プラン」の一環として実施しているものですが、実施主体の市区町村は、身体障害者施設や社会福祉協議会、 民間のNPO法人団体等に事業を委託していることがほとんどです。 内容は、ホームヘルパー・デイサービス・ショートステイ等の利用援助、社会資源を活用するための支援、社会生活力を高めるための支援、ピアカウンセリング、 専門機関の紹介などですが、この事業の一番の弱点は、派遣事業を行う「実行部隊」がなく、派遣事業については、例えば大手事業所などの紹介に 留まってしまいます。しかし、私は、実行部隊が伴わないとこの支援事業も本当の意味では役に立たなくなってしまうと思います。

  民間企業のヘルパーがいけない、という事ではなく、やはり、当事者の視点をもった自立生活センターのようなところが、利用者の気持ちを 汲みながら、ヘルパーと利用者をコーディネイトしていったり、研修をしていくといった事が大切になってくるのではないでしょうか。
  私たちのように、市町村支援事業の委託を受けて、収入を安定させ、それから必要にあわせて実行部隊を作っていくという方法もありますし、 その逆もあります。いずれにせよ、「市町村支援事業」は「実行部隊」が必要だということは強調しておきたい点です。

  支援費制度に移行し、障害者は自分のケアを自分で経営していくことになりますし、 障害者自身にそのような感覚が育っていってほしいと思います。 私たちも、ケアマネージャーではなく、セルフマネージャーを利用者自身がしていけるような支援を対等な立場でやっていきたいです。

歌うお玉じゃくし   あとがき    「砂に消えた制度」’2012…と言っても、見えない・読めない・見いだせない

  さて、上記以降の社会福祉制度の変化による私たちの暮らしへの影響については、 実は不透明で、混沌としていて、 何かやはり「見えない」「読めない」「見いだせない」というのが私の本音です。 ですから、このコーナーのあとがきも正直に言うとどうやって、まとめようかと思案して更新するのが遅くなってしまいました。

  近年、障害者に対するサービスが細かく提供されるようになった反面、失われて消えていった必要な公的サービスもあります。 つまり、私達は何かを得ると共に何かを失っていったような気がしてなりません。そして今まで私たち在宅障害者が地域で生きることを 支え続けてくれた、ボランティアもまた身体障害者福祉法から自立支援法に変わり、 介護が有料化して行く過程で、人材が激減してしまいました。

  最近、福祉という分野でもグローバル化という言葉をよく聞きます。しかし、その一方では制度基準が細分化されている状況です。 そのような正反対な動きの結果、福祉施設では仕事量が増え、職員の定数が削減されました。 その影響で職員が 日常の業務をこなす事に追われてしまい、入所者と共に生きるというコンセンサスがなくなり、会話さえ出来なくなってしまったというこぼし話を当事者からも施設関係者からもよく聞きます。 高齢化の波や、サービスの変化、先の見えない経済状況の中で、これまでどおりに現行のものに何か新しいものを作り出すといっても、 見いだせるものではないのかもしれません。

  そんな中、先日、私の福祉屋の原点というべき大先輩に招いて頂く機会がありました。 大先輩いわく、『僕たちのやってきたことは、そんなに悪いものではなかったんじゃないかな? 過去をふりかえりひとつひとつ検証する事が大事だよ。 結果としてそれは、将来の福祉のGPS機能に反映される日がくるよ。』という指摘を頂きました。

ところで皆さん、話は全く違いますが『砂に消えた涙』という歌をご存知でしょうか? 原曲はイタリアのカンツォーネ風の ポップスでミーナが歌い、日本では弘田三枝子を始めとし 麻丘めぐみ・伊東ゆかり・岩崎宏美・矢沢永吉・竹内まりや・初音ミクなど多くのアーティストの方がカバーしています。 失恋の歌なのに、なぜかとても明るいメロディに美しい月夜の海辺の風景を描いた詞がマッチして、リラックスして楽しみながら聞けます。 失くした恋の後に新しい希望の始まりを予感させてくれる一曲です。

  バブル経済の崩壊や構造改革とともに砂に消えた制度。そして翻弄された自立生活。 大変乱暴な意見かも知れませんが長い地球の歴史の中、生物は繁栄と絶滅の危機を乗り越えて、現在に至っています。 人間も地球にいる生物です。そうして、人間は文化や文明を培って来ました。 何かにうちひしがれて生きる時も生命の再生力や 集団をつくる豊かな知性は自然に備わっているはずです。 その事を考えると、過去のものを整理しながら謙虚に見つめなおす事も私たちの義務だと感じる昨今です。 森田童子ではないですが『ぼくたちの失敗』(僕の失敗)を検証する事で今後に何か少しでも生かせないかと思っています。
  ちょっと『Smoke Gets in Your Eyes』煙りが目にしみます。(完) 2012・2・8

前ページに戻る