明のページ-作業所を乗り越えた地域の拠点作りをめざして

「作業所を乗り越えた地域の拠点作りをめざして」

1989年3月20日号 『脳性マヒ児の教育』‐養護学校の教育とその展望 SSK・通巻第1774号 P12〜P15掲載
脳性マヒ児教育研究会/日本アビリティ協会編集                玉井  明
ペンギンのカット 1.「あすなろの会」結成の経緯

  「あすなろの会」が発足したのは昭和55年12月のことだった。 それまで神奈川県において、地域作業所は4〜5箇所しかない状況であった。 当会はそのような中で、神奈川県総合リハビリテーション・センターの中に設置されている 更生訓練施設(更生ホーム)を退所した障害者と、職員の有志が集まって、厚木市内の公園でバザーを行い 、障害者の手作り作品である皮細工、タイプ ーアート、手まり、籐細工などを販売した。 これを機に、今まで、リハビリテーションの職業前訓練や作業療法でみがいた技術を生かし、 また地域交流を求め、バザー活動を行っていこうということになった。 これが、Γあすなろの会」結成のきっかけとなった。
  その後1年間は、県内の福祉店や地域の祭などでバザーを重ねた。そのような活動を行っていくなかで、 神奈川県内に点在している会員の、情報交換の場としてのバザー活動という側面も担い、 機関紙「むすび」も有志たちの手で発行され、会員同士の横のつながりも出てくるようになった。
  しかし、会員の中から、どこかの場所を借りて、バザーの作品を製作する場をつくって欲しい、 との意見が出てきた。こうして、翌年、厚木市七沢に「こだま工房」が週3回開所した。

2.広域事業の問題点

  ところが先程も述べたが、当会の発足に携 ったのは、神奈川|県総合リハビリテーショ ン・センターの利用者や職員の有志であり、 神奈川県全域に広がる会員を有していたが、 厚木市という行政区の中の会員が少なかっ た。このため地域作業所の補助金の交付が認 められず、その後2年間無認可状態が続き、 寄付金や不要品バザー、街頭カンパ、オリジ ナルTシャツの販売などで、なんとか運営を 維持していた。
  すでに周知の通り、昭和30年代から40年代 中期にかけての高度成長期において、福祉の 分野では大規模収容施設が造られてきたが、 オイルショック後の福祉見直し論の中から地域福祉の充実が叫ばれ、また障害者の側でも 大規模施設よりは生まれ育った地域で生きた 方がよいという意見が常識とされてきた。当 会は、まさにその社会状況の中で、政策と政 策の谷間のクレバスの中に落ち込んだ典型的 な例であろう。
  2年間無認可状態のなか、こだま工房も立 ち退かざるをえなくなり、ジプシー生活を余 儀なくされた。たまたま会員の―人が、アメ リカのバークレーにあるCILの障害者運動= 公民権運動を含めた障害者運動に刺激を受 け、脳性マヒ者をはじめとする全身性障害者 の会員がそれに同調し、その後の会の動向に も影響を及ぽしていった。

3.「あすなろの会障害者自立活動センター」設立

  昭和59年、新聞などで土地捜しをしていた が、その甲斐あって、同年厚木市下荻野に100 坪の土地を借りることができ、中古のプレハ ブを2棟買い、「あすなろの会障害者自立活動 センター」を設立した。設立に伴い、厚木市 内の会員10人で、あすなろの会作業部を設 立し、同時に地域作業所の認可を取った。ま た、従来通りの全県的な活動は、あすなろの 会事業部で行うことになった。このことは、 作業所認可を受けるための苦肉の策であっ た。
  作業所の活動内容は、軽作業を中心とした プログラムが組まれた。当初の作業内容とし ては、電線の解体作業やステンレス・ベルト の解体作業、鈴の組立作業であったが、現在 ではリサイクル自転車製作販売、ワープロ入 力作業、軽印刷製本作業、木工製作、廃油を 利用した無公害手作り石けん製造販売、とい うように作業内容も拡大してきている。しか し、最近の通所者の傾向として、重度の障害 者が増えてきているため、作業一辺倒のプログ ラムでは対応できなくなっている。 そのため 作業に固執するのではなく、個人の生活の質 を高めるためのプログラムの作成が急務な課 題である。
  ―方、事業部においては、障害者自らの運 動を展開しようと考えていた。当時、折しも アメリカのカリフォルニア州バークレー、お よびハワイのCILのリーダー7名が来日し、 「日米障害者自立生活セミナー」を開催した.。 彼らがそのなかで、「障害者が―番の社会福祉 専門家である」と言いきったことに圧倒され た。また、これまで私たち障害者も含めて、 多くの人達が〔自立〕という言葉を使うとき、 Self support〔自活〕という意味で考えてき た。一般就労をしてその賃金で生計をたて、 親元から離れ、一人で暮らすこと、あるいは 結婚し、家庭を築くことを自立生活と呼んで いた。しかし、彼らがいった自立とは全くそ ういうものではなかった。Independent〔独 立〕という意味で使われていた。つまり、一 般就労しようがしまいが、賃金で生計をたて られなくても、20才になれば、誰でもが独立 する権利があるという。そのための社会保 障・年金制度の確立・住宅の保障・移動機関 の保障などは、行政の責任であると言いきり、 そうした内容のリハビリテーション法ができ たのも、我々の運動の成果であると力強く語 った。この衝撃と興奮をテコに、神奈川の地 において自立生活運動の機運が高まった。こ のようななかで、当あすなろの会事業部にお いても、事業内容に大きな変化がみられた。 会員の自立に対して関心が高まり、「障害者自 立生活をめざす神奈川セミナー」実行委員会 に加盟した。また、「神奈川県全身性障碍者 団体連絡会」にも加盟し、県行政に対し、施 設問題や住居の確保、社会保障の充実などに 関する要望書を持って交渉に行った。
  昭和60年に入ると、市内の厚木青少年会館 で「あすなろの会障害者自立生活講座」を年 間を通じて隔月に開催した。内容は、障害者 の身近な問題として「友達とボランティア」 「年金制度と年金の使い方」「異性とのつきあ い方、恋人、結婚」「住居」「介護システム」 について、当事者である障害者がパネラーと なって討論を深めた。
  そのような流れのなかで、様々な人間関係 のもつれを生じた。その代表的な例が、 会の活動の路線の違いであった。従来の活動の主流であった、 手作り品製作販売活動を通して社会参加し、 いくらかの収益を上げることを第一義的な目的と考えてきた会員と、 障害者の自立生活を実現していくための、 実践的活動を重視する会員の間で対立があった。 言うまでもなく、前者は比較的障害が軽度である会員で、 後者は先天的な障害を持つ、全身性障害者の会員であった。 結果として、時代の潮流が国際障害者年を契機に、 自立生活運動の方に移行せざるをえなかった。 また、会員の多くは、それを望んでいた。
  昭和61年4月、厚木市のはからいで、同市 上荻野にある元保育所の建物を利用して、市内の知的障害の人たちの「井泉憩のいえ」と、 共同使用することになった。これまで使っていた作業所の建物は、 改良してリサイクルショップをつくろうという計画もあったが、 スタッフ不足で計画倒れに終わってしまった。
  移転をきっかけに、通所者20人以上の大規 模作業所の許可を厚木市から受け、年間680万 円(うち県が1/2負担、市が1/2負担)の助成金で運営するようになった。職員も2名だった のが、4人体制で日常運営を行っていくこと になった。

4.現在の課題とこれからの方向性

  (1)個々のニーズに応える

  ここで最近の「あすなろの会」の活動につ いて少し述べながら、今抱えている問題と、 これからの方向性を考えていきたいと思う。 まず、作業部にあっては現在通所者23名、職 員4名のスタッフで活動を行っている。 しか し、当会の特色として、脳血管障害者などの 中途障害者と、脳性マヒ者などをはじめとし た全身性障害者とが混在 しているので、一人ひとりのニーズに応えら れない状況になってきている。例えぱ、中途 障害者の利用者の多くは、充実した作業活動 をすることによって、少しでも高い賃金をも らいたいというニーズがある。また―方、先 天的な障害者のニーズは、作業活動よりは地域での自立生活を 目標とした様々な活動に期待している。そして、 最近の養護学校の在学生などの実態をみてもわかる通り、障害の重度化が進み、 作業所活動や自立生活よりは、身体の機能維持を図るためのリラクゼーションや、 QOL(生活の質の向上)を模策するた めのデイ・ケアの場も要求されはじめてきて いる。このように大きく分けて3つの違った 型のプログラムを、限られたスペース(約20坪)と限られた職員(4名)、限られた補助金 (20人以上の作業所で年間700万円)の中で、どう実現していくのかが問われている。  それと共に、当作業所では毎日地域のボランティア・グループが、 ローテーションを組んで 昼食作りに来てくださっているが、60名にのぼ るボランティア、それは確かにありがたいこ とではあるが、60名の個々の感覚の善意を調 整することは至難の業であり、一番神経を使 うところである。ボランティアをどう育成し ていくかも、―つの課題である。
  また、事業部の問題点として、会の発足当 時から行なわれていた手作り品製作販売活動 は、現在は物品販売部と呼ばれ、作業部の職 員がその職務を逐行しているが、しかし、障 害者の重度化が進むなかで、徐々に作品を製 作できるような会員が少なくなってきてい る。そのような実情のもと、この活動をどう 継承していけばよいのか?自立生活運動に関 しても、確かに5年前と比べれば自立生活 に関心を示す会員も増えてはきているが、こ れからを担う若い障害者のリーダーがなかな か出てこないという現実もある。現在、事業 部の運営は無認可状態で、寄付金やリサイク ル・バザーなどの収益金で細々と運営してい るが、将来的に事業の安定を図るために、リ サイクル・ショップの建設や、作業部のな かの印刷部門を、独立させた形での事業を導 入していこうという構想もある。 また、現行の補助金制度では、自立活動セ ンターのような事業にたいしての固有の補助 金制度がないので、 そのような制度の新設に 向けてアクションをおこしていかなければ ならないであろう。
  ともあれ、地域社会の中で自立を夢見る障 害者が、今後増えていくことは確実であろう し、障害者の生活圏も拡大していくことにな るであろう。障害者の生活が、ただ単に一行 政区だけに留まることはないであろう。その ときに再度、広域的活動が必要になるときが 来るに違いない。

  (2)第二作業所の必要性

  当会の作業所を見た場合、作業部設立当初 は、脳血管障害者などの中途障害者が作業 所を利用していたため、どちらかと言えば授 産施設的な内容のプログラムであったが、 年々脳性マヒ者をはじめとした先天性の全身 性障害者が増えてきていることは先程述べて きた通りであるが、その障害の特殊性から、 現在行なわれている作業活動には向かなくな ってきている。当会ではこのようなニーズに 応えるため、とりあえず社会活動センター的 な内容とデイ・ケアの場との内容を含めた形 での第二作業所を昭和64年4月より10人規模 で厚木市妻田で開所し、そのようなニーズに対応していく。
  ■第―作業所
  通所者定員数を15名、職員数3名とし、主 にこれまで通り脳血管障害などによる中途障 害者の軽作業活動の場としていくが、これま での作業種目の充実を図るとともに、新たに 印刷部門を導入しようと検討している。
  ■第二作業所
  通所定員数10名、職員3名とし、在宅障害 者の生活の質の向上を図るとともに、障害者 の自立生活を促進していくことを目的とした 様々な活動を行っていく。また、重度の障害 者のためのデイ・ケアの事業も行っていき、 地域に開かれた作業所にしていく。
  双方の作業所を連携しあいながら、上記の 活動を行い、ニーズに対応していきたと思 っている。
  日常運営面においても、経済的な面におい ても、前途は多難であるが、障害者による障 害者のための拠点づくりを目指して活動して いきたいと思っている。
    


  今あらためて18年前の、この文章を読むとあの時代は一筋の光が見えた時代だったのかなと思います。 オイルショック後大規模施設の破綻への方向に突き進む中、地域福祉への移行の過程の中で、当事者・福祉関係者が一番管理されない時代だったのかもしれませんね。 4月から地域作業所も自立支援法が施行されると聞きます。 何よりも地域の拠点としての障害者のたまり場であり続けてほしいと願っています。  2007.2.15
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