「25年を振り返って・・・」

-挫折との闘い-

2003年6月 かざぐるま(小児療育センター編集) 第155号 掲載     玉井  明
読書のカット●養護学校から普通学級へ

  思えば、私は1978年から、福祉屋をしょうがなくやっています。福祉業界に入ったきっかけは、要は自分が障害者であって、その経験を活かしたいと思ったのです。
  4年間の就学猶予。そして「特別だから特殊学級へ行け」と言われ、特殊学級3ヵ月を経た後、「お前は向いてない」からと、ゆうかり園に入れられたが、折しもポリオ全盛期で、「CP ( 脳性マヒ ) には治療がない」と言われ、1年で進路も決まらず出されてしまい、地域の教育委員会からは特殊学級に行けと言われたものの、親が普通学級に強制的に入学させたので、その後はいつも順調というわけではありませんが、普通学級で中学、高校と過ごしました。

●大学時代の出会い
  72年、何とか、福祉大学に入学することができました。大学は全共闘ブームの末期で、学費闘争が起きていました。何にも知らない私は、先輩たちに取り囲まれて「福祉自体が、本来あってはならないものなんだよ。お前も卒業すれば、障害者を管理する立場になるんだぞ」としつこく叩き込まれました。
  ちょうど5月の連休が終わった頃、「保安処分を考える会」で、青い芝の会が作った「さようならCP」の上映会に参加しました。今考えれば、その会にはすごいメンバーが集まったというか、横田、横塚、矢田、小山という、青い芝の会神奈川支部のいわゆるマハラバ村カルテットが一堂に会し、映画を見た後、討論会を行いました。
  1年生の私は ( この人たちは、どうやって食っているんだろうな ? ) と素朴な疑問を素直に質問してみたところ、小山さんに「生活保護で食っているが、どこが悪い !?」と怒られてしまいました。いたいけな、夢もある若い障害者の私はまたしても一撃をくらい、ショックで、授業すらも出ていいのかわからなくなり、3ヵ月間アパートに引きこもってしまいました。
  そんな時に「玉井君、私たちがやっている自主ゼミに来ない ?」と先輩から言われ、行ってみました。そこには、馬渡先生という、都立大学社会学部出身で元全学連副委員長をやっていた経歴の先生がいました。確か京都大学の作田啓一の論文「現代社会の疎外について」のディスカッションを行っていました。その後、マルクスの「ユダヤ人問題に寄せて」がとりあげられ、その中で、私がまさしく悩んでいた、『障害者も健常者も市民社会ではあるが、平等ではない。要するに市民の中でも、市民という認知をされていない市民がいる』『人間の一番大事なものは“類的愛だ”』ということを学びました。

●自宅を作業所に
  5年問の大学生活後、自分は障害者でいる以上は福祉の業界から離れたくても離れられないという思いがあって、ゆうかり園の管理当直の仕事をしていました。忘れられないのは、養護学校義務化に反対していた辻田先生が「気をつけろよ ! お前はエリートなんだから」と、要は仲間として付き合えよと説教をされたことです。
  夜勤なので、家と折り合いがつかなくなり、家出をして、旭区の知り合いの家に転がりこみました。自立したいので生活保護を申請に行ったら、受付けてくれたのが大学の先輩でした。鶴ヶ峰に越してきて、3部屋のうち2部屋を作業所に提供し、管理当直と、作業所運営の二足のわらじをはくようになりました。それが1977年設立の作業所「空とぶくじら社」でした。

●50年代から80年代まで
  話は変わりますが、今までの福祉は「目標」や「対立」が見えました。たとえば1950年代は、GHQが入り、福祉が公的なものとなりましたが、障害者福祉まで手が回りませんでした。50年代の末期にポリオが大流行すると、明日の経済発展を担う子どもたちが障害者になってしまうという危機感のもと、神奈川では「ゆうかり園」ができました。
  60年代は高度経済成長期で公共投資が活発になり、神奈川県で言えば、「神奈リハ」「こども医療センター」「さがみ緑風園」等、大規模施設全盛時代がありました。同時に人権問題等の芽生えがあり、入所施設の組合等の“職場の改善運動の一環”として、障害者側の権利を守ろうとする運動が起きていました。
  しかし、70年代に入ると、施設側の管理強化が厳しくなる一方で、全国的にはずさんな施設管理で当事者が亡くなったり、介護が楽になるからと子宮が取られたりといった事例がありました。神奈川では青い芝の告発型の運動が登場しました。今も歴史に残る、川崎駅前バスジャック事件や金沢区障害児殺し事件等に鋭い切り口で、当事者側からのメスが入りました。73年と78年に二度のオイルショックがあり、それが大規模収容施設の歴史的終焉でした。
  経済的必然により、80年代はローコストの地域福祉型の目玉と言われる地域作業所が、施設に入所している ( したくない ) 障害者の「地域で生活したい、家に帰りたい」という利害と一致し、県内にまたたくまに広がっていきました。87年には、障害基礎年金が大幅にアップされ、より地域型の福祉政策を厚生省は打ち出してきました。障害者運動もただ反対するだけでなく、政策立案の過程に障害者が参加できるような運動形成を取るべきだという方向に向かいました。

●方法論が先行して本質論おきざり
  90年代からは基礎構造改革が進められました。そして2000年、私の現在の職場であり、支援費等に先立った委託機関としての、市町村障害者支援事業がスタートし、各地に障害者自立生活センターが設立されました。その流れの中で障害者ケアマネージャーができ、1年たったら、ケアマネージメント従事者になりました。
  厚木市内に自立生活センターを設立して3年。感じることは、何でも金、何でもエンパワメントと言い、個人の問題にすり替えるところに違和感を覚えます。ピア・カウンセラーという障害者の専門家の出現により仲間意識が薄れ、まさしく、かつて私が先輩たちに忠告されていた“障害者が障害者を管理する”ことを疑問に思わないという風潮さえみられます。方法論ばかりが先行し、本質論がおきざりにされてしまっている感じがしてなりません。
  私も50歳を過ぎ、いつまでも障害者とか健常者とか言っているパワーもなくなり、CPの二次障害である頚椎症や腰痛にさいなまれ、また、若い人との意思疎通も厳しく、老人の疎外感が身にしみるこの頃です。
  そんな状況の中で若いうちに身につけた思想をつらぬけるはずもなく、支援費制度が抱える問題点や、自薦方式のヘルパーが抱える問題点はかなり本質的な問題と知りつつも、「どうでもいいや」とただひたすら、自分の体力維持に努めています。でもネ、たまには老体にムチ打って引けないところは引けないと、頑張ることもあります。皆さん、あの時の“類的愛”はどこへ行ってしまったのでしょうか。たまには若い人たちと本質的な議論をしてみたいと思います。その時までお元気で。またどこかでお会いしましょう。
    

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